徳島ラーメンとは

徳島ラーメンの特徴

白系ラーメン 岡本中華

白系ラーメン 岡本中華

黄系ラーメン 八万屋

黄系ラーメン 八万屋

黒系ラーメン  いのたに

黒系ラーメン いのたに

■徳島ラーメンは、元来『中華そば』『支那そば』と呼ばれ
「白系」・「黄系」・「茶系(黒系)」と3種類に分けられるスープ色の違いがあるといわれる。

  • 「白系」・・・小松島地方に多い、豚骨スープで見た目は白いスープ
  • 「黄系」・・・中華料理系の店に多い澄んだ黄色もしくは薄茶色のスープ。
  • 「茶系」(黒系とも呼ばれる)・・・豚骨スープに醤油ダレを加えた黒っぽい濃茶色のスープ

■チャーシューではなく、『豚バラ肉』(タレで濃厚な味付けで煮込んだもの)をトッピングしている店が多く存在している。

■また生タマゴを落として食べる習慣もあり、またご飯のおかずとして食べる人も多いので、ほとんどの店で『白ご飯』と『トッピングの生玉子』を注文することができる。

■麺はストレートの中細麺で、短めで柔らかめのものが多い。

徳島のラーメン鉢

直径18cm高さ6.5cm 徳島のラーメン鉢

■徳島の中華そば屋で使われているラーメン丼は全国のものと比べると小ぶり。
徳島の中華そば屋のメニューにある「中華そば」とか「中華そば 小」を注文すると出てくるのはだいたいこの丼のことが多い。
もともとは屋台や出前で使われていた丼で、当時は全国でもこの小ぶりの丼は使われていたが、徐々に使われなくなっていった。全国的には使われなくなったようだが、徳島だけは違った。ほとんどの製造元で廃盤にしてしまっていたこの型は“徳島用”と呼ばれ“別注扱い”で作られていたほどだ。
徳島でこの丼が普及した理由のひとつとして徳島の県民性が挙げられる。徳島の人は、ラーメンの麺やスープが器からあふれんばかりに入っている状態(徳島の方言で云うところの“まけまけいっぱい”)を好む傾向にあり、その意味でちょうどよい大きさだったのだ。
しかし平成に入ってからは、いよいよこの型の製造は難しくなり、今では既製品(一般的なサイズ)を使っているところが多くなっている。

■繁盛店の裏に七厘あり。
ラーメン屋にとって命とも言われるスープ作りには各店のこだわりが色濃く表れる。かつて繁盛店と言われる店には七厘が存在した。その火加減は難しいが、豚骨、鶏ガラ、魚介などをベースに野菜、果物、乾物など(使用する材料は店によって異なる)を長時間コトコト煮込むには、ガスよりも七厘が適していると、現在も使い続けている店がある。

ページのトップへ▲

徳島県 中華そばの歴史(戦前)

1932年(昭和7年)
または
1933年(昭和8年)

徳島市大道の屋台

徳島市大道の通りでは夜間にチャルメラを吹く中華そば(支那そば)の屋台が通っていた。
屋台を行っていた人は徳島市在住の中国人の蒋(ショウ)氏。
残念ながらこの時の中華そばのスープの色や具など、その形態は不明。

1933年(昭和8年)~
1940年(昭和15年)のいつか

徳島市新町橋通りの屋台

日本人や中国人の「支那そば」と書かれた屋台が、夜中の11~12時頃にラッパ(チャルメラ)を吹きながらやってきていたと、昭和2年生まれの方が証言されている。
麺は、やや黄色。(今日ほど黄色が強くはない。)スープは、やや黄色いが透明。具はネギ・シナチク・塩味がついた豚の乾燥肉。胡椒をかけてから客に出していたそうである。
なお、1937年(昭和12)7月に起こった盧溝橋事件以降の日中戦争の激化で中国人の屋台は姿を消してゆき、太平洋戦争(1941年(昭和16)12月開戦)の開始以降には日本人の屋台も見えなくなってしまったという。
1936年(昭和11)ころの「シナそば」の値段は15銭。

1935年(昭和10年)
1942年法務局所蔵

1942年法務局所蔵 徳島県立文書館所蔵「徳島県のラーメン事情(戦後)」より

徳島市銀座の屋台

このころにはすでに、前出の中国人 蒋(ショウ)が徳島市の新鍛冶屋町(現・銀座)に住み、2階建てでガラス戸の玄関のある家屋の1階内部の土間に屋台を置き、その家屋内で中華そば(シナそば)の仕込みを行っていたらしい。

1935年(昭和10年)または
1937年(昭和12年)ごろ

小松島市の屋台

現在の南小松島町あたりに住んでいた中国人が、中華そば(シナそば)屋台を現在の松島町や二条通りで営業していた。
スープは脂っこくはなく、トンコツの澄んだもので塩味。
麺は自家製麺をその中国人自身が行っており、完成した中華そばは細くて軟らかいものであった。具はチャーシュー(煮豚)と刻んだネギだけ。
後に日中戦争が激しくなって太平洋戦争の終戦以前に本国へ帰国したらしい。

1936年(昭和11年)ごろ

徳島市南前川町周辺の屋台

現在の南前川町の前川橋の北側たもとには、夜チャルメラを吹いて屋台の中華そば(シナそば)が通っていた。

1938年(昭和13年)前後

徳島市両国橋の屋台

徳島市の両国橋の南側の通りで、夜(午後11時頃)に中華そば(シナそば)の屋台がチャルメラを吹いて流していた。
屋台を引いていたのは日本人。
スープはほとんどうどんや日本そばと変わらないもの。具については記憶されていない。

1937年(昭和12年)または
1938年(昭和13年)

徳島市秋田町の屋台基地らしきもの

現在の徳島市秋田町5丁目あたりに当時には遊郭があったが、その遊郭の堀の外に隣接(東南方向)した場所に屋台が4台か5台ほど置かれていたのを見て、「ここが中華そば(シナそば)屋台の発進基地であったのか!」と判断したと証言した方がいる。

1941年(昭和16年)
昭和10年頃の両国橋

昭和10年頃の両国橋

徳島市両国橋「東陽」開業

徳島市の両国橋の南詰に木造3階建ての料亭「魚治(うおじ)」があり、その南隣に中華そば(シナそば)の店舗「東陽(とうよう)」が、1937年(昭和12年)か、その翌年頃に開業。
遅くとも1941年(昭和16年)には中華そば(シナそば)専門店になっていたらしい。

スープは鶏のガラで炊き出し、かつお節と昆布を加えた、淡い黄色のもの。
かえし(タレ)は、豚肉を醤油で炊き出して造り、この醤油を丼に入れ、スープを加えて茹でた麺を入れる。
具は、ネギ・豚肉・シナチク。 麺は、秋田町の遊郭の南側の門と国鉄の線路の間に住んでいた中国人が配達して来ていたという。

1942年(昭和17年)または
その翌年あたり

徳島市佐古「東洋軒」開業

徳島市の佐古駅前に住み、醤油業を行っていた吉積幸雄が、副業で夜間に中華そばの屋台「東洋軒」をその周辺で営業していたが、戦争の激化などで屋台を閉店し1942年(昭和17年)かその翌年あたりに北の脇に疎開する。

1942年(昭和17年)3月

徳島市寺島本町、大社義規のハム工場創設

日本ハムの前身、「徳島食肉加工場」創設。
戦災で工場は消失するものの、1948年(昭和23年)に徳島市万代町で工場を再建し、1951年(昭和26年)に「徳島ハム株式会社」へと組織を変更。
1963年(昭和38年)には大阪の「鳥清ハム株式会社」を吸収合併し、社名を「日本ハム株式会社」へと変更する。
「新横浜ラーメン博物館」によると、この「徳島ハム」が存在したことにより安価に豚骨が入手できたことから、徳島には豚骨主体のスープが普及したとされる。

※敬称略。
※上記の年表は、「徳島地域文化研究会」による「徳島地域文化研究 第2号」(2004年3月21日発行)の「徳島県の中華そば史ー大正時代~終戦直後ー2003年12月現在の調査報告」より抜粋したものです。なお、引用元の文献には1924年(大正13年)からの事例が掲載されていますが、当特集内で掲載するにはボリュームがありすぎることから、あえて割愛させて頂いています。この文献にご興味がおありの方は、徳島県立図書館郷土資料コーナーで閲覧してみて下さい。

ページのトップへ▲

徳島県 中華そばの歴史(戦後)

1946年(昭和21年)春ごろ

小松島市、二木・笠井屋台

小松島市の現在の松島町の四国銀行前などで、二木弘(にきひろむ)と笠井幸雄(かさいゆきお)の共同経営の中華そば屋台が開始される。 このコンビでは、製麺作業は二木が行っていたようだ。
コンビは1年ほどで解消され、その後1949年ごろまで笠井は回転焼き(=大判焼き(今川焼き))屋台を松島町の八坂神社の境内で個人営業する。
また、笠井は和田島の米軍キャンプの食堂や戦後に再開された徳島市富田町の洋食店「ノグチ」でも働いている。 二木弘は、徳島大空襲までは徳島市伊月町で理容店を経営していた理容師。

1947年(昭和22年)または翌年

三好郡池田町「かもや」

三好市池田町で、戦前に屋台の中華そば店を営業していた平尾久吉が、甥の平尾ともいち(智一?)や甥の平尾秀市と共同出資で中華そば店「かもや」を開始する。(総和60年代に廃業)
スープはいりこ主体で鶏ガラ・豚骨・が隠し味のアッサリしたもの。具は、チャーシュー・メンマ・かまぼこ・ネギ。

1948年(昭和23年)

小松島市松島町「胡蝶苑」開業

小松島市松島町の千歳橋南詰から現・四国銀行の間の当時の仮説商店街で貞野和代が中華料理なども出す料理店を開業する。

1948年(昭和23年)であろう

小松島市の二木屋台

二木弘が小松島の新港の客船乗場の前で中華そばの屋台を開始。
この屋台の中華そばを当時食べていた人の記憶によると、白っぽいスープで、具は、スライスしたハチク(細い筍)・シイタケ・刻んだネギくらいで、後になって、薄く切ったかまぼこ・ちくわ・テンプラ(共通語ではサツマアゲ)が乗るようになった。
なお、チャーシューや肉は乗らなかったと記憶されている。

1948年(昭和23年)か翌年ごろ

小松島市二条通「松月」開業

小松島市小松島町の二条通りで、中華そばも出す店舗「松月(しょうげつ)」がこのころ開始されたらしい。
経営者は台湾出身の黄江鴻(こう・えいこう)。黄は、戦後に他県から転居してきたらしい。(昭和50年代に帰国したようだ。)
黄の中華そばの具は、ネギ・小さなエビ・春菊が入っていたという。

【三好市池田町、「安田食堂」】

現在の池田温泉あたりにあった「安田食堂」が、メニューに「中華そば」を加えた。
コショウをかけて食べるというのが目新しかったと、当時のことを語る人もいる。

1949年(昭和24年)ごろ

鳴門市「聚楽園(しゅうらくえん)」開業

戦後に神戸から転居してきた幸田郭家(こうだ・かくや)が中華そばの店舗を開始する。

1949年(昭和24年)11月

徳島市南内町「安福」開業

中国料理店「安福」が営業を開始。

1949年(昭和24年)ごろ

勝浦郡上勝町「橋本屋」に中華そば登場

明治時代から続く旅館「橋本屋」が1947年ごろから食堂を併設していたが、このころより「中華そば」をメニューに加えた。

1949年(昭和24年) 八万屋さん昭和30年頃

徳島市紺屋町「八万屋」開業

1949年(昭和24年)からうどん屋として創業。翌年ごろから中華そば店となる。
「八万屋」は、1956年(昭和31年)ごろから1958年(昭和33年)ごろまで、蔵本元町にも店舗を構えていた。
※右の写真は昭和30年ごろの紺屋町の店舗。(八万屋さん提供)

昭和32年頃蔵本元町※左の写真は昭和32年ごろの蔵本元町。よく見ると「八万屋」の看板には「中華そば」「ワンタン」「シューマイ」「豚マンジュー」などの文字が見える。※1

1950年(昭和25年)1~3月の間

小松島市松島町「胡蝶苑」移転

「胡蝶苑」が、現・松島町に移転。中華そばの具は、春菊・ナルト・刻んだネギ。
1954年(昭和29年)、店は松島町内でさらに移転し、「蝶々園」と改名され、1962年(昭和37年)に閉店。
数年のブランクの後に1967年(昭和42年)に徳島市佐古に店舗「胡蝶園」を再開、後に徳島市万代町にも開設した。

1950年(昭和25年)ごろ

小松島市「カサイ」開業

このころから、笠井幸雄の単独経営屋台が開始される。
1962年(昭和37年)現在の場所に店を構える。

1950年(昭和25年)

徳島市佐古「東洋軒」の屋台再開

太平洋戦争をはさんで休業していた「東洋軒」がこのころから、佐古駅前などで屋台の中華そばを再開する。佐古八番町に店を構えたのは昭和29年。
そのスープなどから判断すると戦前のものも鶏ガラを主体とした黄色っぽい色のスープであったと推測される。
2011年閉店。

 

1950年(昭和25年)
昭和33年蔵本

昭和33年蔵本

蔵本町「多良福家

徳島市東新町に昭和9年から平成7年まで存在した「丸新百貨店」の裏で、中華そば店を営業する。当時は「丸新百貨店」の従業員への出前を多く受けていたらしい。(数年後に閉店。)佐古八番町にも店舗を構え「支那そば 多良福家」として営業していたが、昭和40年の台風により被害を受けたことから蔵本町に移転。※1

1951年(昭和26年)7月ごろ

徳島市の両国橋南詰「大盛軒」から銀座「銀座一福」に

折原定二(おりはら・さだじ)が、両国橋南詰で、「大盛軒(たいもりけん)」という屋号で中華そばの屋台を開始。
戦前から徳島市内に住んでいた中国人のヨウ氏に、作り方を教わって出していた。

ほどなくして(遅くとも1951年(昭和26年)には)、銀座に「銀座一福」として店を構えている。

昭和28年銀座

昭和28年銀座

屋号は、明治から続く銀座のうどん店「両国 福助」より一文字“福”をもらい「一福」とした。
この際、今までチャーシューだったものを、豚バラ肉に変える。これは、親交のあった秋田町の「栄寿司」の現在の店主の先々代とともに考案された。(折原勝之氏2011年談)
チャーシュー使用の店ばかりだったこの時代に豚バラ肉を使用し始めた、“豚バラ肉の元祖”ともいうべき店。※1

※右の写真は昭和35年頃の初代 折原定二さん。(銀座一福さん提供)

1951年(昭和26年)または翌年

徳島市津田本町「二木の店」

二木弘の両親(もっぱら母親)が食堂を営業し、うどんや中華そばをメニューにしていた。屋号は無し。

徳島市紺屋町の屋台から二軒屋町「よあけ」に

大阪府堺市出身の戸川英夫が、紺屋町の通りで屋台の中華そばを開始する。 1954年(昭和29年)ごろには二軒屋で店舗「よあけ」となる。

1951年(昭和26年)

小松島市「華月岡本」開業。のち「岡本中華」に

小松島港周辺で知り合いと資本を出し合い、小松島の二条通りで「華月岡本(かげつ)」の名前で屋台を引き始める。
昭和35年、小松島市の日の峰通りに、「岡本」の名前で店舗を構える。※1

※右の写真は創業当時、小松島駅前で屋台を引いていた頃の写真。(岡本中華さん提供)

1952年(昭和27年)ごろ

徳島市秋田町「甘党屋」

数年前からぜんざいや甘酒を出す店として営業を開始していた「甘党屋」が、このころから中華そば店となる。

1952年(昭和27年)8月19日

徳島市南出来島町「千門亭」の広告

この日の「徳島新聞」広告に、西洋料理と中華料理の店「千門亭」(せんもんてい)のメニューの一部が掲載されている。
「中華そば」は「30円」。「五目そば」は「50円」。

1953年(昭和28年)ごろ

吉野川市鴨島町、「三笠屋食堂」中華そば開始。

1953年(昭和28年)8月

海部郡美波町「たにひょう」開業

海部郡美波町(旧日和佐町)にて「たにひょう」が食堂を開始。
当初から中華そばをメニューに加えている。

1954年(昭和29年)

徳島市蔵本町→鷹匠町「末廣亭」

平岡靖の中華風大衆食堂「末廣亭」が徳島大学医学部前で開始される。

1954年(昭和29年)

三好郡池田町「八千代」が中華そばを開始

1956年(昭和31年)か、その翌年

小松島市中田「小松軒(現 松本)」開業

小松島の中田駅近くで中華そばの屋台「小松軒」が営業を開始する。
後の1965年(昭和40年)からは店舗で営業をしている。(小松島市小松島町)
現在の店名は「松本」。

1956年(昭和31年)ごろ

徳島市佐古二番町「上海」開業

このころから、岩谷武雄が佐古駅前などで屋台「上海」を開始する。
1967年(昭和42年)ごろからは店舗「上海」を駅前に開く。

1960年(昭和35年)か、その翌年
昭和35年津田

昭和35年津田

徳島市津田本町 「多家良家

津田本町1丁目で中華そばの店を始める。創業者は当時製麺業を営んでいた山田宗春の弟。
その後、経営者が替わり、1989年(平成元年)に現店主に味を引き継ぎ、津田本町4丁目へ移転している。
なお、「先代(前経営者)は屋台を引いていた『山田』さんという人にそばの作り方を教わった。『多家良家』という店名は、もとは多家良町にあったから。」と店主は語っている。 ※1

1963年(昭和38年)ごろ
昭和35年矢三

昭和35年矢三

徳島市南矢三「広東」開業

屋台で中華そばの営業をしていた菊次太市が、店舗「広東」を開く。
1960年(昭和35年)の地図には「広東」の文字が見える。昭和37年の地図には「菊次」と記載されている。
ここが豚バラ肉をヒットさせた本家といわれる。※1

1966年(昭和41年)
昭和31年西大工町

昭和31年西大工町

徳島市西大工町「いのたに」が中華そば開始

「いのたに」が中華そば専門店になる。創業者が製粉会社に勤めていたこともあり、創業時より自家製麺。(当時徳島で自家製麺のラーメン店は珍しい)
会社組織として登記したのが昭和41年であり、その前から中華そばを出していた、それ以前はうどんやお好み焼なども出す店であった。昭和31年の地図には「猪谷食堂」と記載されている。
1999年(平成11)9月から翌年5月まで「新横浜ラーメン博物館」側からの要請によって出展、「徳島ラーメン」という呼び名とともに注目を浴びる。※1

1970年(昭和45年)

鳴門市「三八 本店」

創業者は岡田秋実(大正15年生まれ)1968年(昭和43年)より、アイスクリーム屋として営業していた「三八」が、ラーメン屋として営業を始める。1974年(昭和49年)に「三八斉田店」1978年(昭和53年)に「三八黒崎店」、1994年(平成6年)大阪に「友翔」、2005年(平成17年)に「三八田宮店」、2009年(平成21年)に「徳島駅前店」を次々にオープン。現在は本店を田宮に移し、「三八田宮店」を本店としている。 二代目 岡田雅文(昭和23年生まれ)、三代目は岡田元一(昭和53年生まれ)※1

1971年(昭和46年)ごろ

徳島市「名東軒」開業

このころ、名東町で「名東軒」が開店する。「名東軒」の創業者は現店主の母親。「広東」で修行し、店を構える。※1

1973年(昭和48年)ごろ

徳島市北田宮「一番」・徳島市眉山口「ジャン」開店

このころ、徳島市北田宮に「一番」が開店する。創業者は笠松智、現在の「藍住一番」がその後継者。その1年後には姉の笠松恭子が徳島市眉山口に「ジャン」を開店させる。「ジャン」は末広に本店を置きチェーン展開を始める。同時に「一番」もチェーン展開し、当時その店舗数は合計すると20店舗近く存在した。現在その大半は閉店しているが、流れをくむ店は「チーアン」「やたつ」「石川」がある。※1

1977年(昭和52年)ごろ

徳島市「ウーハン(現 春陽軒)」

このころ、春日町で「ウーハン」が開店する。その1年後には徳島市出来島にも「ウーハン」が開店する。
春日店は2001年(平成13年)ごろに閉店。
出来島店は1993年(平成5年)に南田宮4丁目に移転し、「春陽軒」と改称する。

1995年(平成7年)

徳島市「ふく利 吉野本町店」開業

徳島市吉野本町に「ふく利」の1号店が誕生する。以降、1999年(平成11年)に北島店、2006年(平成18年)に沖浜店、2008年(平成20年)にタクト店、県外にも「姫路別所店」「姫路飾磨加茂店」「奈良柏木店」をオープンさせている。
さらに2009年(平成21年)には、「ふく利」の新ブランドとして、「つけ麺」や「徳島丼」などをメニューに加えた、「まるたか小松島店」が誕生。以降「大道店」「徳島阿波おどり空港店」「ゆめタウン徳島店」「南あわじ店」「淡路津名店」をオープンさせるなど次々と事業を拡大している。※1

1999年(平成11年)

徳島市「ラーメン東大」開業

徳島市応神町で開業し、大道に本店を構えた翌年には矢三、八万、藍住に立て続けに開店。2004年の「明石ラーメン波止場」でのグランプリ受賞を皮切りに、積極的に事業を拡大。
また、2005年(平成17年)徳島駅前に、“九州系の東大”をコンセプトにした新ブランド「徳島ラーメン麺王 駅前本店」をオープン。以後「東大」と「麺王」は全国に次々と出店、2010年には別々の会社組織にしている。※1

※敬称略
※上記の年表は、一部を除き、徳島県立文書館所蔵「徳島県のラーメン事情(戦後)」(2011年(平成23年)3月12日作成)によるものです。 なお、この文献の中には、上記の他に製麺に関するものも多く記載されており、本来ならそれも徳島の中華そば史には欠かせないものであり、掲載したいところなのですが、当特集内で掲載するにはボリュームがありすぎることから、あえて割愛させて頂いています。この文献にご興味がおありの方は、徳島県立文書館で閲覧してみて下さい。
※1)うまイーネット独自の調査による情報です。

ページのトップへ▲

「徳島ラーメン」という呼称のルーツ

20世紀最後のご当地ラーメンとして、全国に知られたのは近年のこと

新横浜ラーメン博物館

新横浜ラーメン博物館 WEBページ

1998年(平成10)から1999年(平成11)に、神奈川県横浜市港北区にある「新横浜ラーメン博物館」が、独自の調査で、徳島県の徳島市とその周辺地区にあるラーメン(中華そば)が全国的にも珍しいものであることを“発見”し、それらを「徳島ラーメン」という名で全国区のマスメディアを通じて無償で広報を行ってくれたことにより、「日本のラーメン処」に「徳島」の名が加わることになった。

当時、1997年(平成9)からの「新横浜ラーメン博物館」は、全国のあまり知られていない「ラーメン処」を発掘し、その地域のラーメン店1軒に「新横浜ラーメン博物館」内に約1年間の限定期間だけ仮説店を開いてもらい、チラシやパネル展示以外にも、その地域のラーメンの現物をも来館者に実際に食べてもらうという企画を行っていた。
その一つとして、1999年(平成11)9月から翌年5月まで、「徳島ラーメン」として中華そば店「いのたに」(徳島市西大工町)が「新横浜ラーメン博物館」側からの要請によって出展することとなった。

こうして、徳島県は「徳島」の名を冠した全国に知れ渡る名物料理を徳島県史上で初めて得ることになった。

きっかけは“常識はずれ”の“変”なラーメン?

-なぜ“徳島”なのか-

ラーメンまんぷくBOOKこの際「新横浜ラーメン博物館」の武内伸氏が参考にしたとされる本が『株式会社あわわ』が徳島県内の中華そば店を紹介した『ラーメンまんぷくBOOK』(1993年発行)であり、「その本に掲載されている写真を見ると、真っ黒いスープにチャーシューではなくバラ肉を煮たものがあり、生卵が落とされている-という私にとっては常識はずれの絵面が次々と目に入ってきて、変なラーメンという印象を受けていた」と武内氏は2001年の「明日はどっちだ!?徳島のラーメン/昔、今、これから」に書いている。

しかも「そのような風変わりな具を入れる店が、地域全体の半数ほどもある例は自身の長いラーメン体験でも空前のもので、今後にもそのような風変わりなラーメン処というものは日本国内では見つからない可能性が大きい」とも証言されている。

この発見をきっかけとして「新横浜ラーメン博物館」は、徳島以外では見られない独特な「黒」いスープの店にターゲットを絞り、誘致に向けて動いていくのである。
※「徳島地域文化研究会」による「徳島地域文化研究 第2号」(2004年3月21日発行)の「徳島県の中華そば史ー大正時代~終戦直後ー2003年12月現在の調査報告」より抜粋。

徳島人が気づいていなかった“個性”をあらためて知ることになる

「徳島ラーメン」という呼び名は「新横浜ラーメン博物館」が命名したものであり、地元では一般的に“中華そば”や“支那そば” と呼ばれていることが多い。
その呼び名が、“徳島ラーメン”であろうと“中華そば”であろうと、そんなことはそれほど重要なことではないのですが(県外の方にとっては特に)、地元徳島では「白・黄・薄茶色系のスープにチャーシュー」というスタイルのものをも“徳島ラーメン”とひとくくりにして呼ぶことに少なからず違和感を感じている人も未だに多いようだ。

今まで地元徳島の人は、「スープの色の違い、チャーシューと豚バラ肉の存在」は提供する店側の個性、「生タマゴを落とす、ご飯を一緒に食べる」などは食べる側の好み、としてなんの疑問を持つこともなく、自分のお気に入りの中華そば屋でそばをすすっていた。

そんな普段食べている中華そばが他県に比べて“変わっている”ことすら知らなかった徳島県民に、それを知らしめるきっかけとなったという意味でもその功績は大きいと言っても過言ではない。

ページのトップへ▲

リニューアルにあたり

このホームページ内では現存する店舗を創業の古い順に記載させていただいています。なつかしい味や徳島の中華そばの進化などを知っていただければ嬉しく感じているからです。

この「徳島ラーメン特集」をリニューアルするにあたり、もっと深いものにしようと取り組んだのが歴史です。
そのきっかけとなったのは、

  • 「岡本中華」さん、「銀座一福」さんという、徳島の中華そば史には欠かすことのできないこの老舗2店とご縁があり、それぞれのお店の歴史をおうかがいするうち、徳島の中華そばのルーツをもっと探ってみたいと興味をそそられたこと。
  • 戦前より徳島市蔵本町に住み、その付近の中華そばを好んで食べていた当サイトスタッフの家族が語っていた記憶を立証できる文献を探していた。と同時に、中華そばの歴史に関して、まだ知られていないことがあるんじゃないか、もしあるなら公表し、徳島の食文化の歴史の一環として伝えていきたいと思ったこと。

以上をきっかけとして、徳島県立図書館に度々足を運び、戦後の住宅地図や徳島新聞の記事、写真集、徳島年鑑や徳島市史などあらゆる郷土史料を閲覧し、現存する店舗の方にお話をおうかがいしたりして情報を集めていましたが、なかなかこれといった資料を見つけることが出来ず、また、知れば知るほど新たな疑問が生まれたりして調査に時間がかかっていました。

そんな時、徳島県立文書館で貴重な資料を見せていただくことができました。それはまさに欲していた資料、いやそれ以上のもので、一語一句割愛するのも惜しいぐらいのものでした。そしてその執筆者の方からの快いお許しも得て、今回この特集に使用させていただくことができました。これらの資料をベースに、当スタッフの調査結果を加え掲載させていただいています。

これら資料を提供してくださった皆様、突然お邪魔したにもかかわらず快く昔話を聞かせてくださったお店の方々、ありがとうございました。

また、この特集をご覧いただいた方の中で、他に情報をお持ちの方、訂正等をご希望の方はお気軽にご一報下さい。よろしくお願いいたします。

メールはこちらうまイーネット運営担当者へ